自分史 会社員時代①

2009年3月:関西学院大学商学部卒業
2009年4月:株式会社日本システムディベロップメント(現:株式会社NSD)に入社
いつも消えない寂しさがあった
社会人になり上京した僕は、初めての東京、初めての一人暮らしということで、最初の頃は毎日がワクワクの連続でした。ただ、その一方で常にどこか満たされない感覚があったように思います。
「今の自分は本当の自分じゃない」「ここは自分の居場所じゃない」「一時的にここにいるだけだ」
そんな感覚があったからか、会社の同僚や先輩と深く関わることを避けてしまい、いつも無意識に壁を作っていました。そして休みの日は、同じく就職と同時に上京した昔からの友達とだけ遊ぶようにしていました。
今にして思うと、自分の中の潜在意識が常に訴えかけていたのかもしれません。でも、自分自身と向き合うことができなかった当時の僕にはそんな声は一切聞こえず、ただただ原因のわからない虚無感や孤独感に苦しみ続けていたんです。
自分がわからず将来に絶望する
とはいえ、仕事は仕事なので一生懸命に働きました。当時の現場で最も優秀で実質的なリーダーだった先輩から「今までで面倒を見た後輩の中で2番目に優秀だ」と言って頂けるなど、そこそこ評価もして頂いていました。
でも…全くもって仕事が楽しいとは思えませんでした。それどころかむしろ、IT企業特有の細かすぎるチェック作業や、下請け作業特有の「理由なんて知らなくていいから言われたことをやれ」という仕事スタイルに嫌悪感すら抱いていました。
そうして3年が経ったころ、僕は上司に「仕事を辞めたい」という意志を伝えました。すると上司が一言こう言ったんです。
「辞めて、これからどうするの?」
…全く答えが見つかりませんでした。
「俺って他に何かできることあるんやろうか?」
「…いや、あるわけないよな。」
「それに今の仕事も満足にできてないようなやつが、どこかから必要とされるんやろか?」
「…いや、そんなわけないやろ。」
「…あぁそっか、俺のような奴はこの会社に捨てられたら、もう生きていく場所はないんや…」
そんな結論が出るまで1分もかかりませんでした。
「すみません、やっぱりこれからも頑張ります。」
気が付けば、僕はそう答えていました。
この時まだ25歳、今にして思うと諦めるには早すぎる年齢ですが、当時の僕は本当に視野が狭く、未来のことを考える習慣も全くなかったので、本気でこう思ったんです。
それから僕は考えるのを辞めました。「自分は今刑務所にいて、正月とGWの年に2回、地元の家族や友達に面会することができる。それを生きがいに頑張ろう。」
そう思って、ただ目の前の仕事をこなすことだけを考えて生きるようになってしまいました。
それでもゆずれなかったもの
そんなボロボロな社会人生活でしたが、それでも仕事をする上で僕なりにゆずれない事が2つありました。
一つは『相手にとっていかにわかりやすいか?を一番に考えること』
メールを出す時、設計書などのドキュメントを作成する時、初めて見た人がいかにわかりやすいか?いかに見やすいか?を常に意識してました。というか、そこを疎かにする人やドキュメントが何故か許せなかったんですよね。
しかし、当時の現場では必要な情報が入っているか?論理矛盾がないか?が守られていれば良いという考えが主だったので、わかりやすさや見やすさを気にする僕の考えはあまり理解してもらえませんでした。「着眼点がズレてる」なんてこともよく言われたなぁ…汗
そしてもう一つは『後輩を大事にすること』
とにかく忙しい現場だったので、若手はほったらかし、もしくははみ出た仕事を押し付ける場所、といった扱いばかりでした。そして、若手がすぐに仕事を辞めたり、メンタルをやられて休職したりということがかなり多かったんですね。
僕には力がなかったので何も状況は変えられなかったけど、関わる後輩だけは少しでも気持ちよく仕事をしてもらいたい。そんな想いが人一倍強かったように思います。
今にして思えば、これらは僕の強みでもあったんですよね。当時はそんな風には思えず、自分はズレているという思いが強かったけど、相手の気持ちを想像できる『共感力』だったり、若い芽が育つことに歓びを感じる『成長促進』などの資質が表れていたんだと思います。
こうやって振り返ってみると、何もないと思ってた会社員生活の中にも自分を知るチャンスなんて至る所に散らばってたんだな~って本当に思いますね。
▼続きはコチラ
【自分史 会社員時代②】